三百余年。
三つの時代が
共存する建築。

和歌山・広川町に建つ東濱口家住宅は、江戸から明治にかけて増改築を重ね、 三百余年にわたり受け継がれてきました。

多様な時代の建築が調和するその姿は、
国指定の重要文化財として今もその価値を伝え続けています。

東濱口家の歴史

和歌山県広川町(旧・廣村)を拠点に、東濱口家は鎌倉末期の武士を起源とし、仏教への帰依、海運や醤油醸造などの商業活動、そして地域社会への貢献を通して、幾代にもわたりその名を刻んできました。地元の信仰と暮らし、教育や防災文化の礎に深く関わり、その存在は紀南の歴史の一端を担っています。

応仁の乱を越え、 武家から仏門へ

和歌山県広川町(旧・廣村)に拠点を構えた東濱口家の遠祖は、鎌倉時代末期の平家武者・濱口四郎二郎忠宗に遡ります。その12代後、濱口左衛門太郎安忠が応仁の乱の悲惨を見て武門を退き、康正2年(1456年)に高野山で出家。蓮如上人との出会いを経て、明応年間(1490年頃)に松崎道場(現・安楽寺)を創建しました。松崎道場は今も東濱口家の菩提寺です。

商いに才を発し、廣村の名主へ

その嫡流・濱口安太夫忠豊(後に吉右衛門)は、崎山治郎右衛門の薫陶を受け、奥州や瀬戸内海の海運業に進出。延宝年間(約1670年)には、下総国飯沼村に醤油蔵を設立し、紀南出身者による銚子地域の醤油醸造の先駆けとなりました。 また、二代目・濱口忠泰は江戸進出を推し、次男・儀兵衛知直はヤマサ醤油を創業しました。東濱口家は忠豊を初代とし、以降今日まで12代にわたり「吉右衛門」の名を世襲しています。
その後、東濱口家は江戸の醤油問屋「廣屋」を創業。なかでも9代目吉右衛門(要所)は「廣屋」の経営にとどまらず、実業家として、政治家として多方面で活躍しました。現在、広川町にある東濱植林株式会社の基礎も築きました。

宝永の津波と、復興の礎

宝永4年(1707年)の大津波(M8.4)で廣村の屋敷が壊滅的被害に遭い、多くの村民が犠牲に。忠豊(吉右衛門)は廣村の復興に尽力するために新たに仲町の高台に主屋を再建しました。これが東濱口家住宅の起点です。

建物紹介

三つの時代が共存する建築群

宝永・文化・明治という三つの時代を経て形づくられた東濱口家住宅は、津波による被災と復興の記憶を刻む貴重な歴史的建造物群です。主屋・本座敷・御風楼を中心に9棟が現存し、平成26年には国の重要文化財に指定。
また「津波防災遺産」として、日本遺産「百世の安堵~津波と復興の記憶~」の構成文化財でもあります。

宝永年間

主屋Omoya

主屋 江戸時代・宝永4年~同5年(1707~1708)頃に建築。
当主 初代・濱口 吉右衛門(忠豊)
建築様式 木造つし二階建、本瓦葺、北面切妻造、南面入母屋造
建築面積 86.00㎡

300年前、江戸時代・宝永年間4年頃に建築

東濱口家住宅の最も古い棟である「主屋」は、初代・濱口吉右衛門(忠豊)によって再建された、二階建て本瓦葺きの木造住宅です。
1707年、廣村を襲った大津波により先代の居宅や菩提寺・安楽寺を失いましたが、下総国に逗留していた吉右衛門は難を逃れ、復興のために海抜の高い仲町へこの主屋を築きました。

主屋は、名主としての家格を備えながらも実用性を重視した町屋づくり。特徴的な「厨子(つし)二階」は、身分差に配慮した江戸時代特有の建築様式で、当時の社会背景を今に伝えます。低い二階は物置として使われ、船大工道具や漁具なども保管されていたと考えられます。
南面に連なる格子出窓や、内庭から差し込む自然光を活かした構造など、限られた明かりの中でも暮らしやすさを工夫した設計も見どころです。初代・吉右衛門の堅実で質素な生き方が、主屋の随所に息づいています。

文化年間

本座敷Honzashiki

本座敷 江戸時代・文化11年(1814)頃に建築。
当主 6代目・濱口 吉右衛門(矩美)
建築様式 木造平屋、入母屋造、本瓦葺および桟瓦葺
建築面積 154.81㎡

200年前、江戸時代・文化年間11年頃に建築

江戸後期の文化11年(1814)、6代目・濱口吉右衛門(矩美)によって建てられた「本座敷」は、初代の主屋とは異なる格式を持つ、入母屋造りの平屋建てです。仏間・茶室・書院座敷を備えたこの空間は、文人墨客をもてなす迎賓の場として、また、家格を伝える場所として受け継がれてきました。

01士分の家格にふさわしい設え

6代目・吉右衛門(矩美)は、紀州藩から“御勘定奉行直支配”の士分を与えられた人物。上士の来訪に応えるため、本座敷を増築しました。玄関は冠木門(武家門)構え。歴代当主や特別な賓客のみが通るその門は、今も慶弔の場に使われています。那智黒石と玉砂利を敷いた三間の玄関を上がると、儒学者・三井親和の書と茶器が小床を飾り、客を迎えます。書は、親和が吉右衛門の精神的支柱であった亀田鵬斎の師であったことにちなむもので、洗練された筆致が空間に格を添えています。

02仏間

仏間には浄土真宗の金仏壇と、歴代当主の遺影が整然と並びます。開祖・正了法師(濱口左衛門太郎安忠)以来の信仰と、家の歴史が今も静かに息づいています。安政元年(1854)の大津波によってそれ以前の遺影は失われましたが、現在も家族がその記憶を大切に守っています。

03茶室

仏間の東隣には、茶室としての機能を持つ静かな8畳間があります。古風な苔庭に面し、歴代当主が文人墨客と語らいながら一服の茶を供した場でした。この茶室の存在が明らかになったのは、平成19年(2007)の畳替えの折でした。
二か所に炉を設けた意匠は粋で、大窪詩仏や亀田鵬斎など、当主が薫陶を受けた詩人たちがここを訪れました。詩仏の書が鴨居に掲げられ、「世間話をしながら、静かに庭を愛で、ゆっくりと茶を楽しもう」と語りかけてくれます。

04書院座敷

本座敷の中心である書院座敷は、欄間・床の間・金箔装飾など精緻な意匠に彩られています。屋久杉の竿縁天井、玉杢の欅を用いた付け書院、栂の柱──いずれも一切の妥協なく仕立てられた空間は、東濱口家の隆盛を物語ります。
勝海舟が揮毫した“韻俗無然超”の書が掛けられており、訪れた多くの英傑たちがこの座敷で語り合った歴史を感じさせます。なお、勝は晩年の回想録『氷川清話』で、吉右衛門を「傑物の一人」と称しています。

05歴史の記憶をとどめて

安政元年(1854)、7代目・吉右衛門(東江)の時代に再び廣村を襲った大津波。本座敷もその浸水被害を受け、床の間の柱には今なお当時の津波の高さを示す傷が残されています。金箔の壁も被災の痕をとどめ、“国の重要文化財”としての歴史を静かに伝え続けています。

06四季を映す庭園

書院座敷を取り囲む回廊から望む庭は、四季折々の自然に彩られた幽玄な景観。蹲の水面を風が揺らし、鳥がさえずり、苔が深緑の絨毯のように石を包みます。なかでも、鮮やかな朱を放つ“佐渡の赤石”は、当主の遊び心と美意識を象徴する存在です。

明治時代

御風楼Gyofuro

御風楼 明治41年~同42年(1908~1909)頃に建築
当主 9代目・濱口 吉右衛門(容所)
建築様式 木造平屋、入母屋造、本瓦葺および桟瓦葺
建築面積 276.10㎡

100年前、明治41年頃に建築

明治41年(1908)に建てられた御風楼は、三層構造の壮麗な楼閣で、東濱口家の栄華を象徴する建築です。その名の由来は文化文政期の儒学者・亀田鵬斎とされ、9代目・吉右衛門(容所)が、6代目・矩美の迎賓の志を継いで建てました。御風楼には、江戸時代を代表する狂歌師・大田南畝による書も遺されています。沿道からの見物人が絶えなかったと伝えられるその姿は、紀南の地でも際立つ存在でした。

01印月潭(いんげつたん)

本座敷を経て御風楼へと客人をお迎えする際の動線には、東濱口家ならではのもてなしの心が込められています。回廊を進むと、使用人部屋や台所の気配を感じさせることなく、坪庭のせせらぎを横目に、静けさのなか御風楼へと至ります。主屋西側に設けられたこの坪庭には、苔むす天然石を伝って清らかな井戸水が流れ、御風楼の池泉庭園へと注がれています。この水は海に近い水脈にありながら塩気を含まず、初代・吉右衛門の時代より東濱口家の生活用水として用いられてきました。

02二階 書斎と展望の間

回廊のきざはしを上る途中には、三畳の小間が設けられており、吉右衛門の書斎として用いられていました。さらに二階には、四畳半、六畳、そして主室となる十一畳の和室が配されており、池泉庭園を一望する設計がなされています。とりわけ主室には和洋折衷の家具が据えられ、西洋式の卓や椅子にはすり脚が用いられていました。南東の大窓は、着座した客人の視線を意識して設計されたもので、床の間と付け書院の脇に障子戸を組み込むなど、もてなしの工夫が随所に見られます。また、回廊の縁側からは庭園へと直接下りることができ、来訪者は葉音や雨音に耳を澄ませながら、静謐な時間を過ごしました。

03三階 展望の座敷

洋風階段を上がると現れる御風楼の三階座敷は、高さ十二メートルの大空間。北・西・南の三方に窓が開き、廣村の町並みや海原までを一望できます。なかでも北西側の雨戸は、景観を損なわぬよう床下に収納される巧妙な仕掛け。畳敷きの入側も巡らされ、配膳や給仕の動線にも細やかな配慮が行き届いています。一角の六畳間には、鳳凰の透かし彫り欄間や折上げ式格天井が配され、洋式家具と共に電灯の反射光まで計算された設計が見られます。そこには、近代の美意識と伝統のもてなしを融合させた吉右衛門の感性が息づいています。二階の静けさに対し、光と潮風に満ちた三階は、黒潮の海と熊野の山を象徴する空間。かつての賓客には、ラッド博士や犬養毅の名も伝えられています。

新蔵 Shingura

建築様式 土蔵造、二階建、切妻造、本瓦および桟瓦葺
建築面積 39.37㎡

明治30年(1897)頃に、9代目・吉右衛門(容所)によって建てられた「新蔵」は、主に座敷の家具や調度品を収めるための保管庫として用いられてきました。季節ごとに趣を変えるもてなしの品々が、丁寧に納められていたと伝わります。
建物は切妻造・本瓦葺の二階建て土蔵で、桁行7.8m、梁間5.0m。各階は二室に分かれ、登梁構造の和小屋組や堅板張の壁が、堅牢な造りを今にとどめています。

南米蔵 Minami-Komegura

建築様式 土蔵造、二階建、切妻造、本瓦および桟瓦葺
建築面積 58.42㎡

東濱口家が庄屋を務めていた江戸末期に建てられた南米蔵は、明治二十七年(1894)に現在地へと曳かれた、土蔵造の米蔵です。往時には年貢米の俵が積み上げられ、地域の暮らしを支える一隅でした。
切妻造・本瓦葺の二階建てで、桁行9.7m、梁間は北面6.7m、南面5.3mと、台形の平面を成しています。内部は一階が三室、二階が一室に分かれ、束立ての梁に水平材を通した和小屋の架構は、江戸期の意匠を色濃く残しています。
一階は堅板張り、二階は漆喰壁で仕上げられ、土蔵の堅牢さと気密性を両立しています。柱の一つには、安政元年(1854)の大津波の痕跡が刻まれており、静かに、そして確かに、後世に教訓を伝えています。

北米蔵 Kita-Komegura

建築様式 土蔵造、二階建、切妻造、本瓦および桟瓦葺
建築面積 77.76㎡

東濱口家住宅の土蔵群の中でも際立つ大きさの「北米蔵」は、明治27年(1894)の建築。 二階建ての切妻造り、本瓦葺きの土蔵は桁行9.8m、梁間7.9m。蔵の中は一階の東南側を二つに仕切って、残りは1部屋になっています。壁は一階が堅板張り、二階は漆喰の土壁となっています。庄屋制が解体された明治時代ですが、廣村の名門であった東濱口家に集まる米俵は多く、また家人や来客の備蓄米にも大型の蔵が必要でした。

文庫 Bunko

建築様式 土蔵造、二階建、切妻造、本瓦および桟瓦葺
建築面積 34.71㎡

二階建ての屋根は本瓦を葺き、切妻造りの内部は1室にし、骨組みは登梁を使った和小屋、壁は堅板張となっています。 ここには、歴代・吉右衛門が収集した文献や書物などが保管されていました。

左官部屋 Sakan-Beya

建築様式 木造および煉瓦造、二階建、切妻造、本瓦および桟瓦葺
建築面積 41.29㎡

「左官部屋」は文字通り左官職人たちが使用する納屋 兼 作業場で、明治期半ばの土蔵建築です。桁行は西面が4.9m、梁間は4.8mで、蔵の中は一階が土間。珍しいことに、二階は板敷の間に土を盛り、仮の土間を拵えていました。

重要文化財指定

[建築2613号 濱口家住宅 9棟]

現存する東濱口家住宅の居館や土蔵など9棟は、平成26年(2014年)9月18日付で文部科学省より国の重要文化財に指定されました。これらは、江戸時代の宝永4年(1707)頃から明治41年(1908)頃にかけて建築されたもので、各時代の建築様式を良好な状態で保っている点が高く評価されました。
また、東濱口家の濱口吉右衛門と遠祖を同じくする西濱口家(濱口儀兵衛方)の旧宅が、平成19年(2007)に濱口梧陵記念館および津波防災記念館を併設した「稲むらの火の館」として整備されたことを受け、東濱口家住宅も、広川町の歴史と文化を活かす町づくりの拠点として位置づけられ、その趣旨が国にも認められました。

アクセス

所在地 和歌山県有田郡広川町広1292-1
管理 一般財団法人 東濱口家住宅保護財団
〒643-0071 和歌山県有田郡広川町広1302-1
電話:0737(63)2211
代表理事 濱口吉右衛門
専務理事 濱口晃尚
交通手段について JR紀勢本線「湯浅駅」より、タクシーで5分。
*JR和歌山駅から「湯浅駅」までは、紀勢本線にて45分。
*大阪、神戸、京都方面からは、JR線・特急くろしおをご利用の上、JR「湯浅駅」へ。1時間30分を所要。
(注:通過列車がございますので、ご注意ください)